音楽(芸術)の鉄人で社会運動家でもある坂本 龍一さんが死去

あらゆるジャンルの音楽(芸術)の鉄人とし、社会環境問題までも
取込み活動されてきた坂本 龍一さんについて、今回調べてみました。
皆さん、一緒に確認していきましょう。

プロフィール

 本  名 : 坂本 龍一
 生年月日 : 1952年1月17日
 死  没 : 2023年3月28日(71歳没)
 出  身 : 東京都
 学  歴 : 東京芸術大学大学院修士
 血 液 型 : O型
 職  業 : 作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー
 担当楽器 : ピアノ、キーボード、シンセサイザー、オルガン
        ボーカル、ドラム等
 ジャンル : エレクトロニック、クラシック、ポップ・ロック
        フュージョン、シンセポップ、映画音楽
        アンビエント(環境音楽)、ワールド(民族音楽)
        現代音楽、前衛音楽、実験音楽
 愛  称 : 「教授」 命名者は高橋幸宏さん。
       坂本さんと高橋さんが初めて会った時、坂本が東京芸術大学の
       大学院生だと聞いた高橋さんが驚いて、「大学教授にでもなるの?」と
       尋ねたことがきっかけで、教授と命名されたようです。

来歴について

 幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったので、3歳からピアノを習い始めたようです。
 10歳で、東京芸術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始め、最初に興味を持った
 作曲家は、ドビュッシーとバッハであると本人曰く。
 1970年3月に、東京都立新宿高等学校を卒業。高校時代は、読書に没頭しながらも
 ジャズを聴き、自分でも演奏をされており、学生運動にものめりこんでいたようです。
 1970年4月には、東京芸術大学入学へ入学し、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、
 その内容の深さに彼は、それまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな
 衝撃を受けたり、在学中に電子音楽に出会ったりしていた。
 1974年東京芸術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進み
 1976年修了している。
 かなり、幼少期より色々な音楽に出会い、興味を持って追及されて勉強されていたのだと
 感じます。又、学生運動をされていたこともあり、環境問題他のことにも自ら参加されて
 いたのが、ここから読み取れますね。

デビューのきっかけ

 1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人(フォークソング
 、ロック歌手)
の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加した事をきっかけに、
 ポップ・ミュージックに触れ、リリィ、大貫妙子、山下達郎、吉田美奈子等のセッションに
 参加。又、大貫妙子のアルバムアレンジを手掛け、 スタジオミュージシャン、アレンジャー
 としての活動を開始する。

 ファーストアルバム千のナイフをリリース。このレコーディングをきっかけに高橋幸宏、
 細野晴臣と進行を深め、 1978年に結成したYMO(Yellow Magic Orchestra)で、一躍
 メジャーなミュージシャンとして一世風靡した。ファーストアルバムは、イエロー・マジック
 ・オーケストラをリリース。特にシンセサイザ-を中心としたそのサウンドは、70年代の
 終わりのミュージックシーンに斬新な衝撃をもたらした。
 色々な音楽の関わりや経験、音楽に対しての追求、そして人との廻り合せにより、この
 新たな音楽が生まれたのだと痛感します。

YMO解散後の活動について

 1)ソロ・アーティストとして活動し、第一弾として大島渚監督の映画『戦場のメリー
  クリスマス』に俳優として出演し、音楽も手掛けたことで、それ以降映画音楽の制作にも
  携わることになる。英国アカデミー賞で作曲賞を受賞
 2)ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラストエンペラー』でも出演と音楽を担当する。
  アカデミー賞の作曲賞を獲得
 3)1990年代はアクティヴィスト(政治的・社会的な活動家)として内外の社会問題にも積極的に
  発言関与していき、2001年9月11日(アメリカ同時多発テロ事件)の直後には世界の識者の
  論考を集めた編著『非戦』を監修し、ベストセラーとなる。
 4)1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。
 5)1993年にYMOを再結成し、アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間
  のライブを行う。

 6)1997年頃から日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること
  、及び権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるよう働きかけを行う。
  又、1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境・平和問題に言及することも多くなる。
 7)2007年に森林保全活動を行う非営利団体「more trees(モア・トゥリーズ)」を立上げ、
  森の機能や恵みを守り、健やかさを育むべく、自治体や企業と一緒になって植樹や間伐等
  で森林の整備を行う。又、2007年7月16日に起きた新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原子力
  発電所が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始め
  たりもしたようです。

  このように音楽だけではなく、社会運動家としての活動も多くされてきました。
  更に、数多くのチャリティーコンサートを実施、無償での被災地の幼稚園・小・中・高校に
  対し、楽器関連の復興支援を行うための『こどもの音楽再生基金』、被災地支援参加型
  プロジェクト『kizunaworld.org』、被災地支援プロジェクト『LIFE311』など、様々な
  側面から復興支援に尽力された人物でもあります。

闘病生活

 2014年7月10日、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴから中咽頭癌で
 あることを発表される。放射線治療で寛解。6年後の20年、中咽頭がんとは別にステージ4の
 直腸がんが見つかり、治療しなければ「余命半年」と宣告されたことを公表。
 この闘病生活の中でも、母校の東京藝大で1回限りの特別授業も行ったり、病に負けずとし
 モンブラン国際文化賞を受賞されたりしていた。
 又、「新潮」2022年7月号(6月20日重版出来)より、世界的音楽家・坂本龍一氏による自伝
 「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載を開始され、以下のコメントを記載されています。

<坂本龍一氏コメントより>
 夏目漱石が胃潰瘍で亡くなったのは、彼が49歳のときでした。それと比べたら、仮に最初に
 ガンが見つかった2014年に62歳で死んでいたとしても、ぼくは十分に長生きしたことになる。
 新たなガンに罹患し、70歳を迎えた今、この先の人生であと何回、満月を見られるかわから
 ないと思いながらも、せっかく生きながらえたのだから、敬愛するバッハやドビュッシーの
 ように最後の瞬間まで音楽を作れたらと願っています。
 そして、残された時間のなかで、『音楽は自由にする』の続きを書くように、自分の人生を
 改めて振り返っておこうという気持ちになりました。幸いぼくには、最高の聞き手である
 鈴木正文さんがいます。鈴木さんを相手に話をしていると楽しくて、病気のことなど忘れ、
 あっという間に時間が経ってしまう。皆さんにも、ぼくたちのささやかな対話に耳を傾けて
 いただけたら嬉しいです。

まとめ

 本当に、世界中でこれだけ多くの方から追悼メッセージが送られる方は、それほどいないと
 思いますが、日本人としては誇りに思います。又、闘病生活での中でも、人生を振り返って
 おこうと思われることは、見習いたいですね。この先いつ何があり、人生が終わってしまう
 かもわからないので、日々大切に過ごしていきたいですね。数え切れない程の歴史を刻まれた
 坂本 龍一さんに心からお悔やみ申しあげます。最後まで、お読み頂き有難うございました。

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